マラリアの歴史
年表
- ・発見と入植
- マラリア島はハワイ・ニュージーランドとともに世界でも最も遅くまで無人だった地域の一つで、535年の大噴火(シュドリックのネダベンタイとメタラーデのクッシードが同時に噴火?)以前の遺跡は一切発見されていない。一方、朝霧はウ・ツァン神聖帝国の領土だった。
6世紀(553年とされる)、日本人がマラリア島を発見、松島と命名した。596年、推古女王は松島開発を命じ、598年から松島の本格的な開発が始まった。663年の白村江敗戦により朝鮮半島での利権を失ったこともあり、開発は加速、701年には「松島国」が設置された(便宜上山陽道に含まれた)。
なお、松島王国歴では596年を1年とする。
- ・松島王国建国
- 1185年、壇ノ浦で敗れた平家(平知盛以下、教盛・経盛・教経・育盛・行盛・資盛・有盛ら)が松島へ逃げ込んだ。このことは1192年に鎌倉に知られ、1193年、幕府は討伐艦隊を派遣する。しかし、艦隊は遭難。一方、平家側は1203年(比企能員の乱)・1213年(和田義盛挙兵)・1919年(源実朝暗殺)・1221年(承久の乱)と幕府転覆工作がことごとく失敗。こうして、松島は日本とは別の道を歩むことになる。
現在、松島では、1196年に親政を始めた言仁(ときひと)王が国号を松島王国と定めた1203年をもって建国としている。
1203年の松島王国。緑はアレナ・マーレ文明、紫はウ・ツァン神聖帝国を示す。
- ・百年戦争とスペインの進出
- 1342年、メタリンピア帝国のウ・ツァン侵攻により百年戦争が勃発。この戦争は、1362年に松浦但率いる松島水軍が境戸海峡海戦で(汚い手を使って)完勝し、多数の敵兵をワニのエサにしたことにより大勢が決した。1407年、関白太政大臣原田種章はメタリンピアに乗り込み巨額の賠償金を獲得、ここに65年も続いた戦争は終わった。
1358年、メタリンピアの最大領土(暗緑)と当時の松島王国。カンマルにはウ・ツァンの残党が潜伏していた。
1535年、イスパニア(スペイン)の航海者、アントニオ=カルバーリョがマラリア島を「発見」。スペイン政府は直ちにマラリア征服に乗り出し、第一次松島−スペイン戦争(1538〜1542)が勃発した。
しかし、マラリア島は、スペイン本国から遠く、気候風土が白人には不適で、しかも先住民(マラリア人)は強力な軍事力を持つという征服には最悪の条件を抱えており、スペインの征服は失敗に終わる。この後、スペインは季候の良いオルマニスタン(アルバスタン)やセブンズを目指すようになる。なお、標高が高く冷涼なはずのアレナ・マーレを征服したスペイン人たちは、高山病で次々命を落とし、結局この地はタンバレードに持って行かれた。
- ・大内時代
- 1551年、日本の戦国大名大内義隆が家臣の陶晴賢に殺されるという事件が起こる。大内義隆の息子義尊は、家臣を身代わりに松島へ逃走した。1593年に大内義尊は松島王国の関白太政大臣となったが、その時にはすでに親の敵である陶晴賢は死んでいた。大内義尊は松島王国の内政に尽力し、以降19世紀まで大内時代が続いた。
1632年、キリシタンがスペインに内通し、第五次松島−スペイン戦争が勃発。翌1633年、関白太政大臣大内義為はキリシタン禁止法を施行。ここに徹底したキリシタン弾圧が始まった。
一方、大内時代には商工業が発展、近隣諸国との交易も増えた。現在の松島圏の大企業は、この時代の豪商に起源を持つものが多い。
1800年の松島王国。濃青はイギリス領、桃色はタンバレード領を示す。
- ・帝国主義時代
- 19世紀、世界は帝国主義時代を迎えており、列強と互角に渡り合える国力を確保するため、松島王国はウ・ツァンなど近隣諸国を次々征服した。
1840年には鉄道が開通するなど、近代化は急速に進んだが、国内の矛盾は激化。ついに1850年、市民革命が勃発。関白太政大臣大内義常は引退を余儀なくされ、憲法制定(1852)・議会開設(1853)と、松島王国にも民主化の波が押し寄せた。
このとき制定された松島王国国旗。戦後は王家の旗として使用されている。
紅白の配色は、東南アジアで一般的に見られるもの。
革命以来、関白太政大臣は議会から選出されることになった。1853年に関白太政大臣に就任した阿比留直家は強力に近代化を進め、フランス軍を撃退し「canard fou」として恐れられた。
さらに、王国は西のタンバレードと東のマンダリンを討ち、それぞれ征西府と征東府を建設した。
征東府と橘西七島。東側の陸地は隣国マンダリン(橙橘)。王国軍は首都シェンシャンまで攻め込んだ。
近代化による資本の蓄積(生活水準は日本より高かった)により、一度は自力での生き残りが可能に見えた松島王国だが、1898年、大事件が発生する。第八次松島−スペイン戦争である。200年ぶりの対スペイン戦争であるこの戦争には、新興国アメリカが参戦、松島王国にその国力を見せつける。松島王国は、単独での列強化が困難なことを思い知らされたのである。
1902年の松島王国。青文字は領有年を示す。
- ・日本領時代
- 欧米諸国(特にドイツとアメリカ)の進出に危機感を抱いた松島王国は、単独で列強になることもタイのような高度な「外交綱渡り」をすることも困難と考え、民族的に近い日本に統合を打診する。山県有朋・寺内正毅らの尽力もあり、1902年松島王国は日本と合併した。
地域略号は、マラリア島が「松」・大陸側は「朝」、住民は双方ひっくるめて「松島人」と呼んだ。なお、後に朝鮮の略号が「鮮」となったのは、朝霧が先に「朝」の字を使っていたため。
この合邦により、日本は松島の資本=資金力を、松島は日本の人口=市場・軍事力を手に入れた。松島王家は王の称号を保持するとともに貴族院議員の権利(李王家の場合、権利ではなかった)も手に入れた。また、王国議会は地方議会として存続し、新たに衆議院の選挙区が設置された。しかし、議席配分は不平等であり、後々までごたごたの原因となる。
西京には松島総督府が置かれ、1903年の松島拓殖会社設立、1907年の鉄道国有化など、日本領時代にマラリアの近代化はさらに加速した。
松島総督府旗。戦後、松島王国の国旗となる。
ちなみに、地の色が青いものが朝鮮総督旗として使われたという。
松島王国と日本が合併した直後、日露戦争が勃発する。ロシアのバルチック艦隊は、アフリカ廻りで地球を半周したが、イギリスの執拗な嫌がらせによって疲弊、ウラジオに到達することなく全滅した。また、黒海艦隊はトルコの海峡封鎖により動けず、アルハンゲリスクを母港とする北方艦隊はシベリア沖の北極海で遭難し姿を消した(北方艦隊は、1916年にムルマンスクで再興)。
ロシア北方艦隊は流氷に囲まれて身動きがとれなくなり、やがて押しつぶされて沈没。1万を超える乗組員もろとも北極海に飲み込まれた。この遭難は、史上最悪の海難事故として知られる。
合邦により広大な市場、すなわち経済的植民地を手に入れた松島資本は、一挙に日本領各地へ進出する。資本は資本を生み、1945年までに松島が収奪した資金は、現在の物価で50兆円とも100兆円とも言われる。後に韓国の李承晩大統領は松島王国に賠償金支払いを要求したが、王国は無視した。
韓国への賠償金支払いは、朴大統領時代にアメリカの仲介により、賠償3億$・借款5億$で妥結したが、近年、条約の再交渉を求める動きがある。
- ・松島総督府の解体
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行進するアメリカ・韓国などの連合軍。手前はオランダ? 後列はオーストラリア・ニュージーランドと思われる。
1945年、日本の敗戦に伴い松島総督府は解体された。
マラリア島には中国(中華民国)軍が上陸。1945年の12月には、マラリア島を中国の信託統治領とすることが決定された。
しかし、マラリア人は中国の統治を受け入れず、早くも翌1946年には、旧松島王家の言治海軍中将を指揮官とする反乱軍が武装蜂起する。反乱軍は旧日本軍の将兵と兵器で構成されており、中国軍より装備は劣ったものの、地の利もあり戦況は反乱軍有利に進む。中国は本国から大軍を派遣するが、潜水艦によりサメのエサとなってしまう。
中国が面子にこだわり連合国(国連)への援軍要請をためらっている間に、駐留中国軍は皆殺しにされてしまう。しかも、中国本土では共産党が攻勢に転じ、マラリア島制圧どころではなくなってしまった。
マラリア島全土を掌握した王党派は、隣国橙橘の干渉をもはね除け、やや情勢の落ち着いた1948年には総選挙を行い、翌1949年、松島王国の再建を宣言する。今日、王国では対中謀反を「独立戦争」と称している。
なお、マラリア謀反は台湾二・二八事件(1947年)・世聞大奴倭奴暴動(1949年)を引き起こし、それぞれ数万人の死者を出した。
当時、連合国は、マラリアからの全ての日本人・琉球人(1902年以降の移民)追放を予定していたが、混乱により追放は失敗、王国には多数の日本人・琉球人が残留した。後に、彼らの子孫は帰化か退去かを選択させられたが、犯罪歴等により王国籍の取得を拒否された日系人が羽田空港に難民キャンプを作るという事態も生じた。
- ・朝霧再併合
- 朝霧の信託統治国は、戦勝6大国(米ソ中英仏韓)の1国、韓国(大韓民国臨時政府)と決まっていた。しかし、米ソの不協和音により朝鮮半島は分割され、1948年、韓国と北朝鮮が建国される。この間、朝霧はアメリカ預かりとなっていた。
1950年、冷戦が激化する中、アメリカは北朝鮮を攻撃する。これを韓国による攻撃と誤認した北朝鮮は、直ちに反撃した。アメリカが韓国軍に何も知らせていなかったこともあり、韓国軍はたちまち総崩れになる。北朝鮮の戦力はアメリカの予想を超えており、アメリカ軍はたちまち釜山付近に追いつめられた。
松島王国は密かにアメリカに接近、朝霧譲渡と引き替えに参戦を持ちかける。アメリカはこれを承諾、王国は国王親征により空母を含む大兵力を投入。こうして松島王国は朝霧を手にした。
アメリカ占領下の朝霧では、多数派のマラリア人と少数派で将来の統治者となる韓国人との民族対立が激化しており、双方に多数の死者が出ていた。朝霧を占領した松島王国は、マラリア島同様に反マラリア派の韓国人を残らず追放したが、韓国側が受け入れを拒否したため、100万人以上が難民キャンプに押し込められ餓死・病死した。
1952年、松島王国はアメリカ・イギリスなどと講和条約を結び、国際社会に復帰する。しかし、国連加盟には20年の歳月が必要だった。
- ・急速な経済発展
- 独立に伴う混乱が最小限にとどまり、しかも戦時賠償をほとんど支払わなかったため、王国は日本領時代のインフラをそっくり手にした。
これにより1950年代以来松島王国は急速な経済発展を行う。今ではマラリアは先進工業国にも匹敵する技術水準を誇り、原子炉や旅客機(さすがに大型ジェット機は輸入している)や宇宙船まで製造している。
反面、基礎的な消費財に関しては立ち後れが目立つが、これらは輸入により賄われている。
- ・国連加盟
- 1955年、中国(中華民国)が松島王国とモンゴルの国連加盟に拒否権を行使して以来、王国の加盟申請と、中国の拒否権行使は毎年の恒例行事となっていた。中国は、共産勢力の支配するモンゴルに関しては後に拒否権行使を諦めたが、松島王国に関しては国連追放の日まで領有を主張し続けた。
1971年、17回目の拒否権行使の直後、中華民国は国連から追放される。こうして、翌1972年、松島王国は国連に加盟した。
台湾(中華民国)との関係は長らく戦争状態が続いていたが、1996年に李登輝総統がマラリア島領有を撤回すべきと発言し、2002年に公式にマラリア島領有を撤回したことにより正常化した(ただし、正式な国交は存在しない)。
- ・連邦加盟問題
- 再興以来、保守・革新2大政党制が続いていた松島王国だが、冷戦終結に伴う混乱により労働党は弱体化、南オーディリア分離を招いたあげく1996年総選挙で大敗する。翌1997年にはアジア通貨危機の直撃を受け、為替レート・株価の暴落に見舞われる。王国は巨額の金融資産を持っていたため、IMF管理だけは免れたものの、1000億$単位で外貨や外国債券を売り払ったため世界中に大混乱を引き起こした。
その後、王国は保守・極右2大政党制へ移行、2001年には極右政権が誕生し、関白太政大臣の靖国神社参拝(日本訪問時に)、アメリカとの同盟強化など右翼政策を推進する。
松島王国は日米の支援の元、シム連邦に対し強力な自治権を保有したままの統合を承諾させた。
年表
松島王国
シム連邦